تسجيل الدخول気がつくと、リリィは見知らぬ場所に立っていた。
先ほどまでの絶望と孤独が、嘘のように遠い記憶に感じられる。 眼前に広がるのは、果てしなく続く緑の大地と、幾重にも重なる山並み。 空は深い藍色で、地球では見たこともないような、巨大で鮮やかな月が浮かんでいる。 見慣れた東京の灰色のビル群とはまるで違う、息をのむような美しい光景だった。しかし何よりも異様だったのは、空中に浮かぶ無数の麻雀牌の彫刻群だった。
東、南、西、北、白、發、中……。
無数の牌が、まるで意思を持ったかのように、星のように煌めきながら空中を漂っている。 一つ一つが手のひらサイズの宝石のように輝き、時にはゆったりと、時には速く、秩序を持って回っている。 まるで天球のように、その牌はこの世界の中心で永遠に回っているかのようだった。 その荘厳な光景に、リリィはただ立ち尽くすしかなかった。「ここは……どこ?」
リリィは思わず声をあげた。
身体は軽く、宙に浮いているような感覚があったが、足元の草はしっかりと踏みしめられた。 夢か幻か、あるいは死後の世界なのだろうか。「お目覚めかな」
背後から声がした。
振り返ると、そこには華麗な白い鎧を身にまとった若い男性が立っていた。 長い銀髪が風になびき、その顔立ちは整い、澄んだ青い瞳はどこか遠くを見つめているようだった。 まるで絵画から抜け出してきたかのような、現実離れした美しさがあった。「あなたは……?」
リリィは警戒しながらも問いかけた。
あまりにも現実離れした状況に、まだ心を落ち着かせることができない。「私はセディリオ・ヴェルデンハルト、この国の第一王子だ」
彼は静かに頭を下げ、その表情には傲慢さの欠片もなかった。
「異世界マージャンディアへようこそ。ここは、麻雀こそがすべてを司る世界だ」
セディリオの言葉に、リリィは混乱した。
「麻雀が支配する世界……?」
「そうだ。この国のあらゆる政治、経済、社会は、麻雀の勝敗によって決まる。勝者は”ジャンスター”と呼ばれ、法律を定め、敗者はそれに従う。麻雀は、この世界において、単なるゲームではなく、絶対的なルールなのだ」
信じられない話だった。
麻雀はゲームだと思っていた。 楽しみであり、戦略の結晶であることは確かだが、世界の運命が牌にかかるなどとは。 あまりにも重すぎる、恐ろしすぎる現実だった。 あの東京での出来事が、脳裏にフラッシュバックする。 麻雀が原因で、すべてを失った自分が、よりにもよって麻雀がすべてを支配する世界に呼ばれたのだ。 運命の皮肉としか思えなかった。「貴女のような者を待っていた」
セディリオの言葉に、リリィはハッとした。
彼の青い瞳は、真っ直ぐにリリィを見つめている。「私のような者、とは?」
「この国には、麻雀の神が残したとされる予言がある」
彼は静かに語り始めた。
「それは、外の世界から麻雀の才能を持った者が現れ、混乱した世界に秩序をもたらす、というものだ。貴女の魂は、その予言の光を宿している」
リリィは動揺した。
予言の雀士。 才能。 そんな言葉は、今の彼女には最も聞きたくない言葉だった。 才能があったからこそ、プロの頂点まで上り詰めた。 そして、その才能が、蓮に利用され、仲間を、そして自分自身を裏切る結果を招いたのだ。「私が……? 伝説の雀士なんて、とんでもない。私は……」
リリィは言葉を詰まらせた。
過去の屈辱、八百長の濡れ衣、追放された記憶が、津波のように頭をよぎる。 麻雀への愛と情熱は、あの夜、東京湾の橋の上で、誹謗中傷の嵐の中で完全に凍りついたのだ。「もう一度、麻雀を打つ覚悟はあるか?」
セディリオの目は真剣だった。
しかし、その言葉はリリィの心に深く突き刺さる。 麻雀。 もう二度と、牌を握るものか。 もう誰かを悲しませるために、自分の魂を汚すために、麻雀を打つなんてごめんだ。「いいえ。もう二度と、麻雀は打ちません」
リリィは力強く、しかし震える声でそう告げた。
セディリオは驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。「そうか……。無理にとは言わない」
セディリオはリリィの決意を尊重してくれた。
そのことに、リリィは安堵を覚える。 しかし、同時に、この世界でどう生きていけばいいのかという不安が、彼女を襲った。「私は麻雀を打てない。麻雀がすべてを司るこの世界で、私は何の役にも立ちません。すぐにここを離れます」
リリィの言葉に、セディリオは静かに首を振った。
「待ちなさい。貴女を放り出すことはできない。この世界で麻雀を打てない者は、生きるのが難しい。予言の光を宿す者が、どこかで危険に晒されることは、私としても看過できない」
セディリオはリリィの拒否を受け入れながらも、彼女を守ろうとしてくれた。
その優しさに、リリィの凍りついた心が、ほんの少しだけ温まるのを感じた。「では、私はこの世界で、麻雀以外のことで自分の力で生きていきたい」
リリィの目に、再び強い意志の光が戻った。
麻雀は打たない。だが、この世界で何もせずに朽ちるつもりはなかった。セディリオは微笑んだ。
「いいだろう。貴女の意思を尊重する。王宮で、貴女を庇護しよう」
そして、こう付け加えた。
「ただし、麻雀は打たないという貴女の条件付きで、だ」
その言葉に、リリィは深く頷いた。
過去の傷を抱えたまま、麻雀を拒否し、それでも生きる道を選んだ彼女の新しい人生が、この瞬間から始まった。王宮へ案内されたリリィは、豪華絢爛な宮殿の前に立ち、息をのんだ。
その壮麗な建築様式は、この世界がどれほど豊かであるかを示しているようだった。 セディリオは、リリィにこの世界の複雑な麻雀制度について説明してくれた。「ここでは『雀帝』と呼ばれる最強の雀士が国を治めている。毎年、熾烈な麻雀大会が開かれ、その勝者は莫大な権力と富を得る。敗者はその支配に従わなければならない」
リリィは、その話に耳を傾けながら、麻雀がすべてを支配する世界の恐ろしさを再認識した。
麻雀が、ただのゲームではなく、人生のすべてを賭ける戦いなのだ。 政治的陰謀や権力争い、策略、裏切り……すべてが麻雀の牌に集約されている。「麻雀が、そんなにも……」
「そうだ。そして、麻雀の才能こそが、この世界で最も尊ばれるものだ。貴族たちは皆、代々受け継がれた麻雀の血を誇りにしている。残念ながら、麻雀を打たない者は、この国では存在しないに等しい」
セディリオの言葉に、リリィは身が引き締まる思いだった。
麻雀を拒否した自分は、この世界では「役立たず」なのだと。数日後、リリィは王宮の一室で、雑用係としての日々を過ごしていた。
麻雀を打たない彼女は、王宮の住人たちから「役立たず」と嘲笑された。 雀士としての才能がすべてと見なされるこの世界で、牌を握らない彼女は、ただの「外れ者」だった。ある日、廊下で掃除をしていると、通りすがりの貴族の女性が嫌味を言ってきた。
「あら、あれが噂の『役立たずの女』? 王子様が連れてきたらしいけど、どうせ何の才能もないんでしょ?」
「麻雀も打てないくせに、この王宮にいる資格なんてないんだから、さっさと出ていけばいいのに」
リリィは何も言い返さず、ただ黙々と掃除に励んだ。
悔しさで唇を噛みしめるが、反論する言葉は出てこなかった。そんなリリィを、遠くから見つめている、ただ一人の存在がいた。
セディリオ王子だ。 彼は、リリィが王宮の隅で冷遇されているのを遠くから見守り続けていた。 彼の青い瞳は、リリィの苦悩と、その心の中にある麻雀への情熱を、誰よりも深く理解していた。「リリィ……」
セディリオは、小さく呟いた。
彼の胸中には、複雑な思いが渦巻いていた。 彼女の才能を信じ、この国の未来を託したい。 しかし、彼女の麻雀への恐怖と拒絶も、痛いほど理解できる。 無理に牌を握らせることはできない。その夜、リリィは自室で静かに座っていた。
王宮での孤独な日々。 東京での八百長の濡れ衣、そして麻雀への恐怖。 すべてが彼女の心を重くしている。 窓の外には、空に浮かぶ無数の麻雀牌が、静かに回っている。「どうして、こんな世界に来てしまったんだろう……」
リリィはそっと、テーブルに置かれた木製の箱に触れた。
中には、彼女がプロ時代に使っていた、大切な麻雀牌が入っていた。 あの時、東京湾に捨てようとしたが、どうしても捨てることができなかった、唯一の形見。牌の冷たさが、彼女の指先に伝わる。
それは、かつての情熱と、今の絶望を同時に物語っているようだった。リリィの過去の傷を癒し、再び彼女が牌を握る日が来ることを、セディリオは静かに、そして強く期待し続けていた。
そして、彼女が再び牌を握る時、この世界に、そして彼女自身の人生に、大きな変化が訪れることを、彼は知っていた。こうしてリリィの新たな人生が始まった。
過去の傷を背負いながらも、異世界マージャンディアで、彼女は麻雀を拒否しながらも、自らの力で生きる道を探し始める。 だが、その孤独な日々の中で、彼女の心に灯る麻雀の炎が、再び燃え上がる時が来ることを、リリィ自身もまだ知らなかった。雀荘の空気は、いつもよりも一段と張り詰めていた。煙草の煙が薄くたなびき、牌を叩く音とざわめきが入り混じる中で、ひとつの卓だけが静寂に包まれているように見えた。そこに座るのは、貧民街出身の見習い雀士、ミミ。彼女は額に薄く汗を浮かべ、険しい表情で牌を睨みつけていた。対局相手は中年の男。どこか貴族の品位を感じさせるが、その顔には冷酷な笑みが張り付いている。男の名はエドガー。王都の裏社会では名の知れた人物で、巧みなイカサマと容赦ない心理戦で多くの者を打ち破ってきた。「ミミ、お前の負けだな」男は余裕の声で言った。彼の表情には、ミミを|嘲る《あざける》ような|侮蔑《ぶべつ》の色が滲んでいた。ミミは焦ったように牌を動かしながらも、動揺が隠せない。彼女はエドガーの心理戦に完全に飲み込まれ、自分の打ち筋を見失っていた。「くっ!……こんなはずじゃ……」その時、リリィが卓の隅から声をかけた。「ミミ、冷静に。焦っても何もいいことはないわ」その声は、張り詰めた卓の空気を少しだけ緩める力を持っていた。ミミは顔を上げ、リリィの顔を見て、少しだけ落ち着きを取り戻した。「でも、相手の手が強すぎる……どうすれば……」ミミの弱々しい言葉に、エドガーは嘲笑を浮かべて割って入った。「雑用係のくせに、なかなかやるな。だが、そんな甘いもんじゃねえ。お前がどんなに頑張ろうと、所詮は貧民街のガキ。王都の麻雀の闇を知らずに、夢を見るのはやめな」エドガーの言葉は、ミミの心を深く|抉った《えぐった》。彼女の瞳から希望の光が消え、絶望の色が滲み始めた。リリィはその様子を見て、胸が締め付けられる思いがした。エドガーの言葉は、かつてリリィ自身が聞いた、そして麻雀を諦めるきっかけとなった言葉と重なったのだ。リリィは厳しい視線で男を見返した。「私が代わりに打つ」雀荘の|喧騒《けんそう》の中、その言葉は静かな衝撃を生んだ。客や従業員たちは、リリィの言葉に耳を疑った。「代打ちだと?お前が?」エドガーは|嘲り《あざけり》を隠さなかったが、その目は確かに驚いていた。牌を握ることをやめた伝説の雀士が、再び卓につこうとしている。その事実に、彼の冷酷な笑みにも動揺が走った。「そうよ。ミミはまだ未熟。今のままじゃ潰されるだけ。私に任せて。この勝負、私が引き受けるわ」リリィは毅然と席に着くと、改めて牌を手に
雀荘の奥、薄暗い休憩室。 リリィは木製の椅子に腰掛け、窓の外の庭園をぼんやりと見つめていた。 色とりどりの花々が風に揺れ、空に向かって鮮やかに咲き誇る。 その中心には、麻雀牌の形をした巨大な噴水が水を吹き上げ、太陽の光を受けて煌めいていた。 だが、リリィの胸の内はその美しさとは裏腹に、重苦しい暗闇に包まれていた。「牌を握らずに、ただ雑用として生きる……こんなはずじゃなかった。あの時、自分で決めたことだけど」 彼女は低く呟いた。 リリィの心は過去の失敗と罪の影に縛られ、自由を奪われていた。 八百長ですべてを失った、あの日の出来事が、彼女の心を常に締め付けていた。「本当にこれでいいのか、私……」そんな時、不意に軽やかな声が休憩室に響いた。「ねえ、あなた。雑用係のリリィさんでしょ?」 声の主は、薄汚れた服をまとった少女だった。 しかし、その瞳には生き生きとした輝きが宿り、決して屈しない強い意志を感じさせた。 リリィは驚き、警戒心を強くした。 王宮の人間や、この雀荘の客たちとは明らかに違う雰囲気を、その少女から感じ取ったのだ。「はい、そうですが……何か?」 少女は物怖じせずに笑みを浮かべた。「私、ミミ。貧民街からここに来た見習い雀士。どうしてもあなたに会いたくて来たの」 リリィは戸惑いの表情を隠せなかった。 貧民街の人間が、どうして自分のことを知っているのだろう。「なぜ、私に?」 ミミは真剣な眼差しで答えた。「噂を聞いたのよ。『牌を握らない姫』だって。みんなからは色々言われてるけど、私は違うと思う。あなたには誰にも負けない強さがある。だって、こんなに麻雀が盛んな王都で、牌を打たないなんて、並大抵のことじゃないでしょ?」 リリィはその言葉に胸がざわついた。(強さ……私に?)「だから、弟子にしてください」 ミミの声は真摯で、決して諦めない決意が込められていた。 リリィはその目を見つめ返しながら、自分の心の扉がゆっくりと開かれていくのを感じた。「弟子……?」「はい。私はまだまだ未熟。もっと強くなりたい。あなたの経験や技術を学ばせてほしい。あなたのように麻雀を知り尽くした人が、どうして牌を握らなくなったのか、その理由を知りたいんです」 ミミの瞳は熱を帯び、まるで炎のように揺らめいていた。 リリィは沈黙した。「私が教
雀荘の扉が開くと、熱気と煙草の匂いが一気に襲ってきた。 豪華な王宮の清らかな空気とはまるで違う、雑多で粗野な空気に、リリィは思わず顔をしかめる。 しかし、すぐに深呼吸し、背筋を伸ばして内部に足を踏み入れた。麻雀卓が所狭しと並び、麻雀牌がぶつかり合う小気味よい音、高揚した男たちの怒声、そして勝利の雄叫びが空間を満たしている。 王宮では聞くことのない、剥き出しの感情が渦巻く場所に、リリィは少しだけ恐怖を覚えた。貴族A「リーチだ! これで終わりだ!」リリィは配膳をしながら卓を見てしまう。一瞬だけ表情が変わる。リリィ「……」その打牌を見た瞬間、思わず口が動いた。リリィ「その一打は危険です」卓が静まり返る。貴族B「……は?」貴族A「何だと?」リリィは慌てて頭を下げる。リリィ「も、申し訳ありません……出過ぎたことを……」しかし貴族Aは立ち上がった。貴族A「雑用係風情が、私に麻雀を教えるつもりか?」周囲の客も笑い始める。「聞いたか?」「牌も握れない雑用係が助言だってよ!」「王宮を追い出された娘らしいぞ」笑い声が広がる。リリィは唇を噛み締めた。リリィ「……失礼しました」彼女はその場を離れようとする。その瞬間――貴族B「ロン」貴族A「……え?」貴族B「倍満だ」場内が静まり返る。貴族A「な……」手牌を見る。リリィが危険と言った牌こそが、放銃牌だった。貴族B「その牌さえ切らなければ、君の勝ちだったな」貴族A「そ、そんな馬鹿な……」周囲もざわつき始める。「あの雑用係……」「当てたのか?」「偶然じゃないのか?」しかし貴族Aは顔を真っ赤にして怒鳴った。「まぐれだ!」「たまたま当たっただけだ!」「二度と口を挟むな!」リリィ「……はい」頭を下げて去るリリィ。しかし、その後ろ姿を見ながら、一人の常連客が小さく呟く。「いや……あれはまぐれじゃない。」「一瞬見ただけで危険牌を見抜いた。」「もし本当に実力者なら……」「面白い娘が来たな。」 休憩時間。 リリィは一人、窓際で目を閉じていた。 喧騒から離れたこの場所でも、彼女の心は休まらなかった。 貴族たちの冷たい視線と、客たちの軽蔑の目が、瞼の裏に焼き付いている。「リリィさん、あまり無理すんなよ」 年配
王宮の夜は静かに更けていた。 豪華なシャンデリアの光が大理石の廊下を淡く照らし出し、窓の外からは涼しい夜風とともに遠くの噴水のせせらぎが微かに聞こえてくる。 しかし、その美しい光景の中にあっても、リリィの心は一向に安らぐことはなかった。 彼女の背中を押す重圧は日に日に増し、王宮の冷たい視線が刺さり続けていた。「また、あの子が廊下を通ったわね」 「相変わらず、まるで幽霊のように静かに……」 「まるで牌を握ることを拒否するかのように……あの“牌を握らない姫”って噂は本当らしいわ」 「外の世界から来たというだけで、何の才覚もない娘に王子の|寵愛《ちょうあい》を注がれるなんて、我々の面子はどうなるのやら」 貴族たちの囁きは、夜の闇に溶け込むと同時に、リリィの心中を深くえぐり続けた。 麻雀が絶対的な価値を持つこの世界で、牌を握ることを拒否する彼女は、異端でしかなかった。 その孤独を紛らわせるために、彼女はいつも夜の回廊を一人で歩いていた。 その足音が途絶えると、代わりに貴族たちの軽薄な笑い声が響き、彼女の心をさらに凍てつかせるのだった。そんな中で、彼女を見守り続ける人物がいた。 第一王子セディリオ。 言わずもがな、王宮で数少ないリリィの理解者であった。 彼は権威を振りかざすことなく、誰に対しても分け隔てなく接する穏やかな青年だった。 王子の|庇護《ひご》のもとにあっても、リリィにとってこの世界は決して優しい場所ではなかった。 しかし、セディリオは彼女の痛みを誰よりも知り、静かに支え続けていた。 ある晩、リリィはまたひとり、王宮の長い回廊を歩いていた。 大理石の床に反響する自分の足音が、彼女の孤独をいっそう深める。 その足音に混じって、もう一つの足音が近づいてくることに、彼女は気づかなかった。「……リリィ」 呼び止められた声は、セディリオだった。 彼の声は静かだが、確かな温もりが宿っている。リリィは振り返り、はっと目を見開いた。「セディリオ様……こんな時間に、何をしているのですか?」「それはこちらの台詞だ。この時間まで起きて、何をしていたんだ?」 セディリオは彼女の隣に並び、静かに歩き始めた。「散歩です。……考え事をしていました」「考え事、か。この宮殿は、夜になると
豪華絢爛な王宮の回廊に、リリィの足音だけが静かに響いていた。磨き上げられた大理石の床は、彼女の姿を鏡のように映し出す。窓の外に広がる庭園は、色鮮やかな花々が咲き乱れ、陽光を浴びて煌めいていた。その中心には、麻雀牌の形をした巨大な噴水が清らかな水を吹き上げている。この世界では、麻雀こそがすべてを司っていた。政治も文化も、日常の細部に至るまで。麻雀牌は単なるゲームの駒ではなく、力の象徴であり、運命の鍵だった。しかし、その美しさの裏に潜む残酷な現実が、リリィの胸を締め付ける。「リリィ、気をつけろ」背後から聞こえた低い声に、リリィは一瞬立ち止まった。声の主は、王宮警備隊の若い兵士だった。「貴女に近づく者は多い。王子様の庇護があっても、敵はいる。警戒を怠るな」リリィは小さく頷いた。「ありがとう。でも、私はもう怖くない。少しずつ慣れていくしかない」その言葉に兵士は静かに頷き、彼女の後ろから離れていった。王宮での生活は、一見華やかで恵まれていた。清潔な部屋、規則正しい食事、着るものに不自由はなかった。だが、その実態は凍てつくように冷たかった。貴族や他の臣下たちは、リリィを「役立たず」と嘲笑い、陰で|蔑《さげす》んでいた。「あら、噂の『牌を握らない姫』ね」広間の一角で、貴婦人たちのささやき声が耳に入った。「雀士としての才能が全てのこの国で、牌も握れないなんて、王子様のお気に入りだとはいえ、本当に情けない話よね」「外の世界から来たって話だけど、八百長で追放されたって噂もあるわ。そんな人間が、この聖なる王宮にいるなんて信じられない」「ねえ、知ってる? あの子が王子様の庇護を受けてるから、私たちも黙ってるけど、本当は誰も歓迎してないんだって」リリィは何も言い返さず、ただ俯いて通り過ぎた。反論しても無駄だ。ここでは麻雀の強さこそが絶対の価値であり、彼女のような「牌を握らない者」は不必要な存在にすぎなかった。王宮の廊下を歩く度に、冷たい視線や|囁《ささや》きが刺さる。彼女は心の中で何度も繰り返していた。(私に価値はないのか……?)だが、それでもどこかで、ほんの少しだけ自分を信じたい気持ちがあった。ある日の夕暮れ、リリィの部屋の扉がノックされた。「リリィ、少し話がある」その声は、まぎれもなくセディリオ王子のものだった。彼は優
東京湾の波の音が遠のき、視界が白に染まる感覚が全身を包んだ。 それは、深い海に沈んでいくような、あるいは無重力空間に放り出されたかのような、不思議で、どこか心地よい感覚だった。 全身の力が抜け、意識が遠のきそうになったその時、唐突に足元に硬い感触が戻ってきた。気がつくと、リリィは見知らぬ場所に立っていた。 先ほどまでの絶望と孤独が、嘘のように遠い記憶に感じられる。 眼前に広がるのは、果てしなく続く緑の大地と、幾重にも重なる山並み。 空は深い藍色で、地球では見たこともないような、巨大で鮮やかな月が浮かんでいる。 見慣れた東京の灰色のビル群とはまるで違う、息をのむような美しい光景だった。しかし何よりも異様だったのは、空中に浮かぶ無数の麻雀牌の彫刻群だった。東、南、西、北、白、發、中……。 無数の牌が、まるで意思を持ったかのように、星のように煌めきながら空中を漂っている。 一つ一つが手のひらサイズの宝石のように輝き、時にはゆったりと、時には速く、秩序を持って回っている。 まるで天球のように、その牌はこの世界の中心で永遠に回っているかのようだった。 その荘厳な光景に、リリィはただ立ち尽くすしかなかった。「ここは……どこ?」リリィは思わず声をあげた。 身体は軽く、宙に浮いているような感覚があったが、足元の草はしっかりと踏みしめられた。 夢か幻か、あるいは死後の世界なのだろうか。「お目覚めかな」背後から声がした。 振り返ると、そこには華麗な白い鎧を身にまとった若い男性が立っていた。 長い銀髪が風になびき、その顔立ちは整い、澄んだ青い瞳はどこか遠くを見つめているようだった。 まるで絵画から抜け出してきたかのような、現実離れした美しさがあった。「あなたは……?」リリィは警戒しながらも問いかけた。 あまりにも現実離れした状況に、まだ心を落ち着かせることができない。「私はセディリオ・ヴェルデンハルト、この国の第一王子だ」彼は静かに頭を下げ、その表情には傲慢さの欠片もなかった。「異世界マージャンディアへようこそ。ここは、麻雀こそがすべてを司る世界だ」セディリオの言葉に、リリィは混乱した。「麻雀が支配する世界……?」「そうだ。この国のあらゆる政治、経済、社会は、麻雀の勝敗によって決まる。勝者は”ジャンスター”と呼ばれ、法律を